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欲求不満 その2 [メモ]


 メモ。Versagung。R・シェママ編『精神分析事典』より。

欲している満足の対象を獲得することができないでいる主体の状態。
 
 欲求不満という用語はしばしば、非常に広い意味で、欲望するものをわがものにすることが、主体にとって不可能なことを指し示していると、理解されている。心理学と精神分析の通俗化は、このような理解から、各人の困難はなんらかの欲求不満と関係がある、という安易な考えを導き出す。子供時代に欲求不満にされたから、主体は神経症になる、という具合に。

 精神分析のテクストそのものの中で、しばしばこの種の公式化に出会うことを、認めなければならない。たとえば、分析の実践が欲求不満と理解される時などがそれだ。患者の要求に応えることを拒否することによって、分析家は古い要求を再登場させ、もっと真実な欲望が開示されるように仕向けることになる。

 そのような理解には、欠如のいくつかの様態を混同する、という難点がある。J・ラカンは、彼なりに、これを三つ、すなわち剥奪(privation)、欲求不満(frustration)、去勢(castration)に区別している。これら三つの用語は、欠如の作動者(l'agent)、欠如の対象、「操作(ope'ration)」としての欠如そのもの、の区別から出ている。ラカンはこのようにして、幼い子供に関しては、エディプス期以前の時期においてさえ、欲求不満を位置付けるために、彼に欠けているかもしれない現実の(re'els)諸対象について考えるだけで満足するわけにはいかない、ということを強調する。欠如そのものが、欲求不満において、想像的なものだ。すなわち欲求不満は、自我の完全性を、身体像の完全性のモデルに従って復元しようという、つねにむなしい試みにともなうが故に、おそらく限度のない要求(exigences)の領域だ。しかし、人はそこにとどまっていることはできないだろう。子供が自分の欲望を構成する場の人間世界において、答えは、大文字の他者、つまり与えたり拒否したりする母性的ないし父性的大文字の他者によって、音節のように区切りを入れられる。欲求不満の作動者に象徴的次元を与えるのは、このようなプラスとマイナスの交替として形式化することのできる、在-不在の交替だ。

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参考:S4(訳;上P231)
 フロイトは実際、フラストレーションについては一度も語っていません。彼は「Versagung」と言っているのです。この言葉のニュアンスはむしろ破棄という概念に近いものです。「条約破棄」の破棄、契約の取り消しという意味での破棄です。しかし、場合によっては「Versagung」を逆の斜面に置くこともできます。というのは、この語は「約束の解消」と同時に他の「約束」を意味することもあるからです。こういうことは「ver-」という接頭辞を持つ語ではしばしば見られます。ドイツ語では実に重要なのですが、このver-という接頭辞は分析理論の用語選択ではきわめて目立つ位置を占めています。




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欲求不満 [メモ]


 メモ。Versagung。ラプランシュ/ポンタリス『精神分析用語辞典』より。


 欲動の要求の充足が拒まれていると思っている、もしくは自分で拒んでいる主体の状態。


 ドイツ語の Versagung を通常フラストレーション(欲求不満)と訳す習慣は、英語で書かれた著作による欲求不満の概念の流行によるところが大きい。この訳語には、いくつかの注釈が必要だ。

1) こんにちの心理学は、ことに学習に関する研究において、欲求不満と満足感とを対概念とし、それぞれを快刺激の不在または存在のもとにある有機体の状態だと定義する傾向にある。このような考え方は、フロイトのいくつかの観点と無関係ではない。とくにフロイトが欲求不満を欲動を充足させうる外部対象の不在と同一視しているようにみえる場合がそうだ。この意味で、「精神の二原則に関する定式」(1911)においては、外的対象を必要とする自己保存欲動と、自体愛的にそして幻想のかたちで長時間満足している性欲動とを対比している。前者のみが欲求不満に陥る。

2) しかし多くの場合フロイトの Versagung という用語は他の意味を含んでいる。この語は事実関係を示すのみではなく、("言う"を意味する語根 sagen が示すように)相手の側からの拒絶と、主体の側から要求のかたちで多少なりとも表明された要請とを含むところの関係を示している。

3) フラストレーション(欲求不満)という用語は、主体が受動的に満足を与えられていないことを意味すると思われるが、Versagung は"誰が"拒むかを少しも意味しない。場合によっては、みずから拒む(参加の取り消し)という再帰的意味が優勢だ。

 以上の保留は、フロイトが Versagung という概念のために書いた種々のテキストによって裏付けられるだろう。「神経症の発病の型」(1912)において、フロイトは Versagung はリビドーの満足を妨げる――内的あるいは外的――全障害を含むと述べている。フロイトは、神経症が現実における欠如(たとえば愛の対象の喪失)によってひきおこされる場合と、主体が、内的葛藤か固着の結果、現実が提供する満足をみずから拒んでいる場合とを区別するが、彼によると、Versagung はこれら二つの場合を統一しうる概念を含んでいるのだ。したがって、神経症形成のさまざまな形態を比較すれば、ある関係、すなわち外的情況とその人に固有の特性の両方に従って変動するある種の均衡が、"変質"したという考えに到達できるだろう。

 「精神分析入門」(1916-1917)では、フロイトは、外的な喪失それ自体は病因ではなく、それが「主体が欲求する唯一の満足」を侵す場合にのみ病因となることを強調している。

 「主体が成功を収めるまさにその時発病する」(二、三の性格類型1916)という逆説は、「内的な欲求不満」の主要な役割を明らかにしている。この場合はさらに一歩すすみ、欲望が現実に満足されることを主体が拒んでいるのだ。

 以上のテキストから、フロイトによれば、欲求不満においては、現実の対象の欠如が問題になるより、むしろ特定の形態での満足をしか求めないような欲求、あるいはいかなる満足も受け入れることのできない欲求への反応が問題となることが判明する。

 治療技術上は、神経症の条件が Versagung にあるとする考え方が、禁制の規則を基礎づけている。患者には、リビドー欲求をやわらげることになる代理による満足を禁ずるのがよい。分析者は患者の欲求不満を維持しなければならない(精神分析療法の道1916-1917)。

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・参考
全集「不首尾」
荒谷大輔「違約=フラストレーション」
ジジェク「欲求拒否」(『楽しめ』鈴木晶訳)
著作集「拒否」(ある幻想の未来)

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狼男より [メモ]


狼男 全集14 P7より


 ここで問題にする患者は、従順な無関心の態度の陰に立てこもり、長い間手の施しようがなかった。彼は耳を傾け理解を示したが、なにものも寄せ付けなかった。彼の申し分のない知性は欲動の力からは分断されているかのようだったが、この欲動の力が、彼に残された僅かの生活分野で彼の挙動を支配していた。分析の作業に自立した関与をもつようにし向けるには、長いこと教え諭さなければならなかったし、この努力の甲斐あって解放の芽生えが現れても、彼はすぐさま作業を中止し、続く変化を防止して元の情況に舞い戻ってぬくぬくとしていた。自立した生存に対する彼の忌避は断固としたもので、そのためには病気であることのあらゆる苦難を厭わなかった。それを克服する方法はただ一つだけだった。私(引用者註、フロイトのこと)という人物への拘束が強固となって、自立の忌避に釣り合うようになるまで、私は待たねばならなかった。




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素人による精神分析読解の問題 [メモ]


 国分功一郎氏の素人による精神分析読解の問題

 10/1のワークショップのテーマでした。




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つながりすぎ社会を生きる [メモ]

(朝日新聞デジタルより 2013年12月11日)
つながりすぎ社会を生きる 浅田彰さん×千葉雅也さん

『仁義なき優等生社会。接続過剰の状況では、過敏に「道徳」がチェックされていると言える。一方では形骸化した「思いやり」のコミュニケーション、他方では残酷なまでの落伍者の排除という両極端になっている』

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【構成・高久潤】電車に乗って周囲を見回すとスマートフォンをいじってどこかにつながる人ばかり。今の社会の特徴を「接続過剰」と呼ぶ哲学者の千葉雅也さんと、かつて「逃走」という言葉で消費社会の最先端を語った批評家の浅田彰さんに「つながる」社会の行方を聞いた。

【接続過剰とは?】

 ――「接続過剰」とは、どういう意味ですか。

千葉
 今のネット社会では、ささいなことまでソーシャルネットワーク(SNS)などで「共有」され「可視化」されている。スマホも普及し、生活の細部と細部がかつてない規模でつながる。「接続過剰」とはそういう意味です。

 接続が過剰になると、相互監視に等しくなってしまう。ネット上での「楽しい相互監視」が、国家や企業が推進する「監視・管理社会」化を暗にサポートすることになっていないかと考えています。

 SNSは、適度に参加すれば、アイデアを得たり、共に考えたりできますが、重要なのは「適度」で、これが難しい。適度に放っておかれるというのは、互いの自律性を確保することを意味しますが、どんどん難しくなっている。接続過剰でも、切断過剰(引きこもり、見捨てること)でもない共生の術を情報社会においてどう考えるかが問題です。

 今、ネットで発言すると、データベースに保存されるので、消去の操作をしなければ、時につれて「記憶が劣化し忘れられる」ことがありえない。また、拡散した情報を消去して回ることはきわめて困難です。 「接続過剰」なネット社会では、コミュニケーションの形骸化も進んでいます。常に「つながりのアピール」が求められる。メッセージが来れば、できるだけ早く返信する。相手からの返信が遅ければ、嫌われていないかと不安になる。

 最小限でも反応を返すことが「思いやり」として目的化し、形骸化する。以前の携帯メールもそうでしたが、SNSとスマホの普及は、視聴覚を総動員し、ほとんど依存症のような状態を広げています。

浅田
 「接続過剰」な社会では「無視」が許されない。店の冷蔵庫でアルバイトが寝転がった写真がネット上で公開されて「炎上」する「バカッター問題」でも、無視すればいいのに、企業がネット上の批判を配慮して本人を解雇し、さらに損害賠償を求めるなんてことが起きる。昔なら「バカだな」ですんだ冗談なのに。

【情報社会の変化】

千葉
 こうした状況下で僕は、個であるための「切断」の哲学を考えていますが、これは、浅田さんが1980年代に主張した「逃走」論をふまえてのことです。「逃走」は、フランスの哲学者ドゥルーズの言葉で、「漏れてしまう」とか「落ちこぼれる」といった意味もありますね。

浅田
 30年前、『構造と力』や『逃走論』で提案したのは、学校や企業にせよ、反体制セクトにせよ、一丸となって前進しようとする、そういうパラノ(妄想症)的なドライブ(力)から「逃げること」でした。逃げた後で横につながればいい、と。

千葉
 80、90年代には、横の多様なつながりの方へ逃走するという希望があった。

浅田
 そのころはやっと使いものになるパソコンが出てきた時代です(マッキントッシュの発売が84年)。他方、ウィンドウズ95が出た95年が、インターネット普及の画期でしょう。それによって、実際に個人が横につながる可能性が広がった。98年に発表された東浩紀さんの『存在論的、郵便的』は、デリダの思想を「誤配」という鍵概念に注目して論じた本ですが、背景にはネットのもたらす新しい接続の可能性への期待も見て取れます。

 ところが、さらに15年経った今は、「誤配」の可能性よりも、昔つぶやいて忘れられたはずの問題発言さえ事後的に検索されてしまう、つまりいや応なくメッセージが届いてしまうことが問題になっている。そこまで発達したネットが、千葉さんの言う「接続過剰」の病理を生むばかりか、アメリカ国家安全保障局の契約職員だったエドワード・スノーデンが暴露したように、当局が望めば裏からすべてを見られる65億総監視社会を招来しつつある。ドゥルーズの言葉で言うなら「規律(ディシプリン)から監視(コントロール)へ」。個人に規範を内面化させずとも、個人をネットで監視し制御すればよくなったわけです。

千葉
 ネットによって実質化された横へのつながりは、旧来のヒエラルキー(縦の権力構造)をかいくぐって広がるという意味で解放的であるけれども、今日では、その横へのつながりによって監視社会がグローバル化するに至っている。「縦から横へ」というフラット化は、抑圧的にもなる。ですから僕は、「逃走」の行方であったはずの横へのつながりが、今や過剰化してしまった状況から、部分的に「切断」されることが必要だ、と強調しています。

浅田
 「逃走」というのは縦の統合からも横の連結からも逃れることなので、大きくはそこに含まれると思うけれど、「切断」の必要については同意見ですね。

【仁義なき優等生社会】

千葉
 東さんが言う「誤配」には、メッセージが「届かないかもしれない」と「間違ったところに届く」という二つの意味がありました。ネット社会の高度化によって、後者ばかりが全面化し、何でもかんでも文字通りに蒸し返され、毎日あちこちで「炎上」している。

 深刻なのは、ことの重要性の程度を判断できなくなっていることです。バカッター問題にしても、どうでもいいことですよ。熟慮するべき問題は他にたくさんある。重要性の程度を判断する「仁義」が失われている。何でもかんでも可視化されるから、何でもかんでもを「シロ」にしないと気が済まない。これは「仁義なき優等生社会」ですね。いわば「不良」の存在を許さない社会になった。かつて「不良」は、規範から外れても「適度なグレーゾーン」で生き生きしていたのに、今日の「仁義なき優等生社会」では、システムからの単なる「落伍者(らくごしゃ)」にされてしまう。

 接続過剰の状況では、過敏に「道徳」がチェックされていると言える。一方では形骸化した「思いやり」のコミュニケーション、他方では残酷なまでの落伍者の排除という両極端になっている。

 シロかクロかという単純化です。僕は、こうしたことが、かつての消費社会からの変化だと思います。90年代末の若者のコミュニケーションを「毛づくろい的」と評する見方がありましたが、その後のネット社会では、他者への配慮が形骸化し、消費の対象にまでなったかのようです。企業のカスタマーサービスのように、未然にトラブルの種を気にすることが過剰化する。現代哲学で議論されてきた「他者への応答責任」が形骸化されているともいえる。思いやりのサインを消費する社会、道徳の消費社会です。そこからの「切断」について考えたのが、10月に発表したドゥルーズ論『動きすぎてはいけない』です。

【批評と接続過剰】

浅田
 「接続過剰」な社会では、相手を傷つけてはいけないという予防的な「思いやり」(それは相手に反発されたくないという自己防衛でもある)がコミュニケーションを貧しくしてしまいます。

 そこでは批評が不可能になる。「仲良くけんかしな」というルールの下でほめると同時にけなすのが批評なので、けなすとコミュニケーションが断絶するのでは批評は成り立たない。「壮大な失敗作だ」というのは最高のほめ言葉でもあるのに、そのニュアンスが伝わらなくなる。

 かわって、書店員の書く「ポップ」やネット書店の読者によるレビューが重視されるけれど、それは商品の紹介や消費者の感想であって批評ではない。

千葉
 そもそも批評は、ハラスメンタルなものですからね。

【切断と逃走】

千葉
 形骸化したコミュニケーションから分離された思考をどうやって確保するか。しかし完全な「引きこもり」になるのでもない。これまた程度問題ですが、それこそが難しい。たとえて言えば、「発達障害」的な独自のこだわりによって世間から「切断」される、部分的に隠れるということです。

浅田
 『逃走論』の次に出した『ヘルメスの音楽』で、ピアニストのグレン・グールドを取り上げました。彼はライブでの聴衆の盛り上がりが音楽をゆがめるという理由で、演奏会をやめてスタジオに引きこもった。そこでの自由なプレーを、情報技術を使って直接リスナーのもとに届けようとした。まずは「切断」があり、それがシンギュラー(特異)なメッセージの伝達を可能にするわけです。

 グールドは元祖「引きこもり」とはいえ健常者でしたが、しいて言えばドゥルーズの言う「スキゾ(分裂症=統合失調症者)」より「アスペルガー症候群」に近いかもしれない。そういう積極的な「発達障害」の可能性も考えられますね。

【不良の哲学】

浅田
 千葉さんの「切断論」はいわば「不良の思想」であるところが面白い。例えば、デリダの責任論というのは、「責任が取れないことに責任を取る」という思弁的な議論だけれど、それを現実に適用しようとすると、おおむね優等生の生徒会長みたいな議論になる。

千葉
 もっともっと細かく気をつかいましょう、みたいな話。

浅田
 今の「若手論客」と呼ばれる人たちも総じてそんな感じでしょう。ネットを通じて、これまで無視されてきたマイノリティーの声なき声にも耳を傾けよう、うんぬん。

 そもそも、「社会や人間のラディカルな変革を構想する左翼思想はもう古い、問題があればそのつどパッチを当てて処理する部分的社会工学しかない」という前提の上で、たとえば代議制民主主義が十分にマイノリティーの声を反映できないなら、ネットでの絶えざる国民投票で補完していこうといったことを考えるわけですね。

 ちなみに、マルクス=レーニン主義のようなラディカルな外来思想への拝跪(はいき)を批判し、日本なら日本の「大衆の原像」を重視したのが吉本隆明の思想だったけれど、今それに対応するのが「オタク文化論」で、そういうソフトな大衆文化論がハードな社会工学を補完する形になっている。その「オタク文化論」も、「普通」の異性愛に固執し、フェミニズムや、多様な性のあり方を肯定するクイア(変態)理論からの批判を外来思想として退ける、保守的な側面をもっています。

 もちろん、具体的には部分的情報社会工学でやれることはどんどんやったらいいと思う。しかし、それは哲学や思想の問題ではない。哲学や思想とは、可能な範囲で工夫することではなく、可能な範囲そのものを考え直す過激な試みだったはずだから。

千葉
 優等生的な議論では、他者への配慮と言いながらも、大前提として許容できない何らかの他者を考えないようにしていることが多い。グーグルの社是は「Don’t be evil」ですが、考えたくもない「悪」に対しては、アレルギー反応を持っているような印象があります。

 特定の規範に照らして「悪」と認定されるだろうことも含め、実験的に人間と世界のあらゆる姿を思考することを止めてはならないと思う。マジョリティーの思考パターンを裏切ることを止めてはならない。

浅田
 「逃走」とは簡単に言うと「マイノリティーになること」。在日韓国・朝鮮人へのヘイトスピーチのように、自分を「日本人」というマジョリティーに同化しようとすることで、激烈な排除が生まれる。しかし、自分も別の次元ではマイノリティーだと気づけば、対話や合意なしでも共存は可能になる。

 そこで、「優等生」は、ネットを使って声なき声を拾い上げ対話を密にするなど、民主主義のバージョンアップを目指す。それはそれでいい。しかし、「優等生」が「マイノリティーの声に耳を傾けよう」と熱弁をふるっているとき、そんな議論自体に耐えられなくて黙って出て行くのが真のマイノリティーたる「不良」でしょう。「切断」の思想は、そうやって対話から逃げる自由を重視する「不良」のすすめだと思います。

千葉
 そうですね。「不良」というのは、社会の多様性の別名ですから。対話を工夫することは必要だとしても、そもそも必要なのは、誰だって様々な面で「不良」でありうる、マイノリティーでありうるという自覚を活性化することである、と。「優等生」の良かれと思っての接続拡大の訴えからも「切断」される自由を認めなければ、「優等生」のその「良かれ」は機能しないということになるでしょう。多様な「不良」を擁護する、それが「切断」の哲学ですね。

【情報社会の行方】

浅田
 この30年の情報社会の発展を振り返ってみると、「べき乗」(累乗)的とも言える急速な変化にあらためて驚かされる。

千葉
 でも、行われたことは実に単純です。「情報をためる」→「検索できる」ということだけ。

浅田
 まさに量が質に転化したわけですね。

 ただ、そこで成立したネット社会は、「接続過剰」な「監視社会」であると同時に、きわめて不安定な社会でもある。かくいうわれわれも暗証番号一つで自分の財産をネットに託しているわけだけれども、今の暗号だっていつまでもつかわからない。

千葉
 世界がフィクション化されつつあるような感覚です。かつて私たちは、大地の上に立っていたけれども、今では電子の紙の上、必ず痕跡が残される平面の上に立ち、大地が見えにくくなっている。そういう情報社会の底が、突然、がらっと崩壊するかもしれないという不安。

 頻繁に繰り返されるLINEでのメッセージのやりとりは、そんな不安な社会での「祈り」のやりとりのようにも見えてきます。信じてないのに、信じたふりをし続けないといけない。

浅田
 かつてSF作家のJ・Gバラードと話した時に、彼は「社会は一瞬にして変わりうる」と言っていた。その感覚こそがSFの基礎だ、と。幼年期に中国で日本軍による占領と戦争を体験した人ならではの感覚です。その感覚を今のわれわれも必要としているのではないか。

千葉
 最近のフランスの哲学者メイヤスーは、「世界の物理法則は突然、偶然に変化するかもしれない」という過激な主張をしていますが、それもまた、情報社会の不安を反映しているように思えます。根底的に偶然性にさらされているという感覚が、広く共有されている時代です。

浅田
 過剰に接続され、すべての情報が一瞬で検索されてしまう万能のシステムに見えながら、一瞬で壊れてしまうかもしれない脆弱(ぜいじゃく)性を抱えている。われわれの日々の生活がそんなシステムに依存していることを考えても、「切断」の思想の意味は大きいと思います。




異常性 [メモ]


「精神分析の見地から言えば、何ものも≪病理的≫とは言えません」


真の分析家 [メモ]


「真の分析家は被分析者なのです。本職の分析家の助けを借りて、彼が自分の分析家となるのです。そのために契約してお金を支払っているのです」


自己知 [メモ]


「精神分析医のところへ来る人たちは、分析医に話をしながら、過去のさまざまな試練によって掻き乱された内的秩序を取り戻そうとする。彼らはみずからの人間的成長を阻害している反復過程に囚われながらも、過去の試練を心に呼び返しつつ、その攪乱的な意味を解読しようとするのだ。」


 ・・・この楽観性は、ラカン派の特徴か。

身と体 [メモ]


身と体の違いに注意






分析治療 [メモ]


真の分析治療は、満たされない欲望やそこから生じる苦痛を象徴化するのを、可能にしてやること。


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